イベントルポ「第4回オンライン証言会―核兵器をなくすことができるのも人間」

2020.08.17

8月8日に開催した第4回のオンライン証言会は、長崎で1歳10か月のときに被爆した和田征子さんに証言をしていただきました。和田さんは幼いころに被爆したので、当時の記憶はありません。しかし、母親の証言をベースにしながら、これまでに国内外で数多く証言されるなど、その想いを届けてきました。

Youtubeでアーカイブもご覧いただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=cMpG395TIvo

―小さい頃の和田さんはどんな子だったのですか?

被爆したのは1歳10か月なので、当時の記憶はありません。普通の子でしたよ。みんなにかわいがられて育てられたという思いはあります。勉強は嫌いではなかったのですが、運動は苦手でした。

―被爆当時の記憶はないと思いますが、日々の証言はどのようにされていますか?

私には、被爆当時の記憶はまったくありません。母は、順序だてて当時の話をしたわけではないのですが、機会があるたびに何回も当時のことを話してくれました。そのため、「自分は被爆者だ」とずっと昔から思っていました。大人になってから、東京都大田区にある被爆者団体で、原爆史の本を作ろうということになり、母の話をまとめて書きました。当時を知る方は、「あの時はどうだった」と時系列に話をされますが、私にはそういうものはなくて、断片的に聞いたことをまとめています。

―8月9日周辺の出来事について教えてください。

8月9日の11時2分に原爆が投下されたのですが。暑い夏の日だったと聞いています。空襲警報が解除になって、母はお昼ごはんの用意をしていました。私が住んでいた家は住宅地だったので、私は外で遊んでいたみたいです。そしたら母が「外は暑いから中に入りなさいよ」と言って、家の中に戻りました。しばらくしてからものすごい大きな爆発音が聞こえたということです。その音が聞こえてすぐに、母は私を抱えて守ってくれました。気が付いたときには、木造の家の中はガラスや障子が粉々になって積もっていたそうです。

地図を見ると分かりやすいです。長崎は山で囲まれている地形です。爆心地は浦上で、私たちは長崎駅の近くに住んでいました。中町天主堂が爆心地から2.5kmのところにあって、うちはもう少し離れた2.9kmのところでした。家の近くに金毘羅山という山があって、ちょうど山の陰だったのでどうにか助かりました。家の瓦はみんな爆風によって片方に寄っていました。外はオレンジの空気が漂っていて、道の向こう側の家は全く見えなかったということです。「自分の家に上に爆弾が落ちた」と言っている人もいて、何が起こったのか誰も分からなかったのです。

しばらくすると、浦上で被爆した人たちが金毘羅山を通って、うちのほうへ降りていく姿を見たそうです。その道はぎょっとする光景でした。焼けて黒くなった人、怪我をした人が蟻の行列のような様子で山道を下ってきたのです。その人たちは血で髪の毛が固まって、角のようになっていたり、着ているものもほとんどない、男か女かもわからない人たちがよろよろ歩きながらこっちに下ってきたりしたのです。戦後、その山道にはお地蔵さまのようなものが建ったと言っていました。そこで息絶えた方が何人もいたのだと思います。山道でどれだけの人が亡くなったのかを母からよく聞きました。―直後に生き残った方々も、移動している最中に亡くなったり、水を求めて川に身を投げたりした方もたくさんいたことが残されていますよね。

うちの家の隣が疎開地と言って、空き地になっていて井戸があったのです。そこにたくさん怪我をした人が来られたそうです。うちの母は私をおんぶして、そこで何人か分からないけど、怪我をした人を洗ったと言っていました。うちの母はこまめな人だったので、古い布を殺菌したものをたくさんためていたそうです。そういうものを包帯代わりにして使っていました。でも、助けた人たちがその後、どうなったのかは分かりません。

その場所で毎日毎日遺体を焼きました。大八車の上に遺体を乗せて歩いて、遺体を山積みにしていました。そこから飛び出る手足はまるで人形のようで、それを朝から晩まで焼くというのがずっと続いたそうです。においとかは聞いても想像もできないのですけどね。でも、そういうことに対してもどんどん無感覚になってきて、「今日は多かったね」とか「今日は少なかったね」とか、そんな言い方しかできないようになってきたのです。当時を振り返ると「みんなおかしかったね」と言っていました。人間があのように焼かれるとはどういうことだろうかということを話していました。

―和田さんのご家族や親せきは無事だったのですか?

遠類にはいます。私をかわいがってくれたお姉ちゃんたちは学徒動員で作業に出ていて、浦上あたりで亡くなったと聞いています。そのため、おばさんは娘の代わりに私のことをものすごくかわいがってくれましたね。幸いなことに、うちの直接の家族で亡くなった方はいませんでした。

―原爆当時、中町エリアだと全壊地域だと思うのですけが、その後もそのエリアに住まれていたのですか?

はい、しばらくいました。幼稚園のころまでそこに住んでいいて、それからちょっと離れたところに引っ越しました。

―長崎を離れるまでに、被爆者としての悩みや、自分が被爆者と感じるような印象的な出来事はありますか?

あんまりないですね。私が小さい頃は、周りに傷を負った人やケロイドを負った人は日常的に会うというかね。特別だと思ったことはないです。ただ貧しいというか、戦後は疎開地にバラックが建ったりしていましたけど。川の近くには朝鮮の方が住んでいました。本当にみんな貧しかったと思います。うちの父の中学の友達は軍人で、その方と父が長崎駅前でバッタリ会って、その方は家族を亡くしていて、しばらくうちに住んでいました。父が残した日記に当時のことが記されています。

―原爆によって孤児になってしまった子供を引き取ったということや、今まで家族ではない人と一緒に暮らすことが多かったのですか?

そうだと思います。うちの近くにはそういう方はいませんでしたけど、後で話を聞くとそうだったということを聞きます。

―原爆によって身近な人を失った中で、和田さん自身も成長していったということなのですね。

そうですね。私をかわいがってくれたおばさんは養子をもらいましたが、最後まで亡くした娘のことを想っていて。だからこそ私のことをかわいがってくれていました。おばさんが入院したときに私がお見舞いにいくと、同じ病室に入院されている方は私のことを知っていて、養子の子よりも私のことをどんなに話してくれたかを知りました。おばさんはずっとそういう気持ちを抱いて戦後過ごされてきたのかなと思います。

―その方のことを考えると、和田さんを見るたびに自分の娘さんのことを思い出されていたのかもしれませんね。

そうですね。私も小学校のときは身体が弱くて、小学校6年生のときはほとんど学校に行くことができなかったのです。小学校6年生のときの修学旅行にも行けませんでした。そのときにちょうどおばさんがうちへ訪ねてきて、「私も行きたかったなあ」なんて話をして泣いていたら、そのおばさんも一緒に泣くのです。やっぱり自分の娘が死んでしまって、いろんなことができなかった思いと重なったのかもしれません。

―和田さんが長崎を離れたのは大学に通うためですか?

そうですね。中高一貫校から短大へ進学して、少し仕事をしました。母校で勉強を教えていたのです。でもやっぱり勉強したいと思って、大学へ進学しました。休職して大学に行かせてもらいました。

―短大や大学へ通っていた時は長崎を離れていたと思いますが、よく被爆者の方は県外で暮らすときに自分が被爆者だということを隠していると聞きます。和田さんはどんな学生生活を送られていたのですか?

隠しはしてないですが、取り立てて言ったりもしませんでした。当時は長崎全体が被爆者のような認識でした。外傷はなかったので分からなかったと思います。私が中学2年生のときに健康診断が始まって、原爆手帳が交付されるようになりました。授業中に何人かが呼ばれて、耳から血を取られました。それが何年か続きました。高校生になってから、その検査の結果で精密検査を受けなければいけなくなって、白血球の数が多いと言われたのです。原爆症という認識はないわけですから、どういうことなのか分からなくて、親にも言えませんでした。結果的には大丈夫でしたけど、やっぱり体調は悪かったです。中学・高校と1回も体育をしたことはありません。

―長崎は山が多いので、山影に隠れられた人とそうでない人とでは放射能の影響が違うことがありますが、和田さん自身は同級生と違うなと思ったことはありましたか?

体育ができなかったときは、それが原爆の影響だとは思ってもいませんでした。当時は分からなかったのです。うちの環境としては、父はサラリーマンで食べるものにすごく困ったわけでもなく、栄養不足でもなかったのですから。なんでだろうとは思っていました。

―被爆者団体や反核運動との出会いはいつ頃だったのですか?

だいぶ経ってからですね。東京の大田区で暮らしていたときに被爆者団体に入りました。1984年くらいだったと思います。

―その活動を始めたときから証言などをなさっていたのですか?

いいえ。さっき言った通り、証言集のために文章をまとめたりしていましたが、出来上がったものを母が読んで「こんなもんじゃなか」と言ったのです。私がいくら想像力を持って書いても、当時の様子などを伝えきることはできなかったのです。そのため、私がとても人様の前に立って証言をするという思いには至らなかったのです。当時はたくさんの被爆者の方が証言されていた時代だったので、その方たちの話を聞いていました。私は若い被爆者ですので、その方たちと同じようには当時の様子を話せなかったですね。今でもためらいながら話をしています。

―運動の中で、最前線で運動を引っ張っていた方と交流する中で印象的だったことはありますか?

サーロー節子さんとの出会いは大きいです。ジュネーブで会議があったときに出させていただいて、そのときに初めてお会いしました。2016年ごろです。サーローさんがサイドイベントで話しているのを初めて聞きました。本当に涙が止まらなくなるくらい感動しました。そのあとにサーローさんに「私はためらっていつも話ができない」と言いました。そしたら彼女は「あなたはお母さんにいろんなことを聞いて育っているし、周りもたくさんの人がいたのだから、他の人よりいろんなことを知っているはずだから、話していいのよ。若い方が話してくれることが私はうれしい」と言ってくださったのです。そうなんだと思うようになりました。今でもためらいがないわけではないのですが、「今話さないと」と思っているのです。サーローさんだけではなく、他にたくさんの方がいらっしゃいますけど、そういう方のお話を聞かせていただいたり、本を読んだりする中で、「どんなに大変だったのだろうか」ということを痛いほど感じています。

―実際に2017年に核兵器禁止条約が採択されたときはどんな気持ちでしたか?

家からパソコンで見ていました。私が携わったのはほんの少しですけど、これまで運動を続けられてこられた方々のことを想いましたね。本当に涙が出て感動しました。122ヵ国のランプがついてね、「生きていてよかった」とたくさんの方が言っていました。

―現在、条約に43ヵ国が批准して核廃絶に進んでいる一方で、核を使うリスクは高まってきています。この状況を和田さんはどうお考えになられていますか?

(証言会当日の批准国。8/12現在、44ヵ国が批准)

やはり危機的な状況です。それは私だけでなく、国内国外の方が感じていると思います。日本被団協が出来てから64年間ずっと、核兵器をなくすために訴え続けてきました。今核廃絶の勢いは止められないと思っています。しかし、50ヵ国が批准し、条約が発効したからと言って、それが終わりではありません。発効されても、すぐに核兵器は廃絶されないと思います。しかし、廃絶を願っているわけですから、それに向けて新たな歩みを始めないといけません。決して楽観的ではないけれど、悲観的でもありません。まだまだみんなと一緒に頑張るぞと。これだけの人たちがやってきたのですから、これで終わってなるものかと思っています。どうしてこんなに必死になっているかということを、人類にとってどれだけ大事なことかということを多くのの人に知ってもらいと思います。

 

記憶がない中で、お母様をはじめとするたくさんの被爆者の証言や想いを聞いてこられた和田さんだからこそ、力強い言葉で核廃絶へ向けてのメッセージを届けられているのだと感じました。核兵器禁止条約は発効目前まで来ています。そこから新たなスタートをきって、本当に核兵器が無くなるまで被爆者の方と共に頑張っていきます。

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四角大輔

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エラ・ガンディ

マハトマ・ガンディの孫
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